鎌倉時代

源実朝の和歌

源実朝の和歌

和歌

かもめゐる荒磯の洲崎潮みちて隠ろひゆけばまさるわか恋

わたつ海の中にむかひていづる湯の伊豆のお山とむべもいひけり

箱根路をわが越えくれは伊豆の海や沖の小島に波のよるみゆ

宮柱ふとしきたててよろづ世にいまぞさかえむ鎌倉の里

聞きてしも驚くべきにあらねどもはかなき夢の世にこそありけれ

いとほしや見るに涙もとどまらず親もなき子の母を尋ぬる

山はさけ海はあせなむ世なりとも君にふた心わがあらめやも

大海の磯もとどろに寄する波破れて砕けて裂けて散るかも

古寺のくち木の梅も春雨にそぼちて花もほころびにけり

ちはやぶる伊豆のお山の玉椿八百万代も色はかはらし

箱根路をわが越えくれば伊豆の海や沖の小島に波のよるみゆ

伊豆の国や山の南に出づる湯の速きは神の験なりけり

都より巽にあたり出湯あり名は吾妻路の熱海といふ

時により過ぐれば民の嘆きなり八大龍王雨やめたまへ

ものいはぬ四方のけだものすらだにもあはれなるかなや親の子をおもふ

世の中はつねにもがもななぎさこぐあまの小舟の綱手かなしも

秋はいぬ 風に木の葉は散りはてて 山さびしかる冬は来にけり

風さわぐをちの外山に雲晴れて桜にくもる春の夜の月

出でて去なばぬしなき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな

源実朝とは

源実朝

源実朝は、鎌倉幕府を開いた源頼朝の息子で、若干12歳にてその座についた鎌倉幕府第3代征夷大将軍です。

建久3年(1192年)に鎌倉で生まれ、建保7年(1219年)に、鶴岡八幡宮で甥の公暁くぎょうに、26歳という若さで暗殺されます。

源実朝は、和歌の名手としても知られ、藤原定家の教えを受けています。

明治の俳人、歌人である正岡子規も、実朝の和歌の力を、「実朝といふ人は三十にも足らで、いざこれからといふ処にてあへなき最期を遂げられ誠に残念致し候。あの人をして今十年も活かして置いたならどんなに名歌を沢山残したかも知れ不申候」と絶賛。

もう少し長生きしていたら、どれほどよい和歌を残したことか、と書いています。

また、歌人の斎藤茂吉も、源実朝の和歌を次のように高く評価しています。

実朝は、新古今集を読み、古今集を読み、藤原定家の教を受けながら、万葉集を得て、これらの家集から多くの影響を受け、その歌を本歌として本歌取の歌を盛に作っている。その間に実朝独自の歌境を表出しているが、実はいまだ初途にあったものと見做すべきである。つまり、実朝は歌人としてもいまだ初途にあって、殺されたと謂うべきである。

出典 : 「源実朝」についての論考(正岡子規、斎藤茂吉、小林秀雄、吉本隆明)

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