平安時代

源義経の辞世の句

源義経の辞世の句

和歌

〈原文〉

後の世もまた後の世もめぐりあへ染む紫の雲の上まで

〈現代語訳〉

後世も、またその後世もめぐり逢おう、あの紫に染まった雲の上の浄土まで(一緒に行こう)。

概要

源義経

源義経の肖像画(中尊寺所蔵)

源義経は、平安時代末期の武将で、幼名は牛若丸。鎌倉幕府の初代将軍である源頼朝は、異母兄に当たります。

平治元年(1159年)に生まれ、文治5年(1189年)6月15日に31歳で死没します。死因は、自害でした。

兄の頼朝に追われ、追い詰められた源義経は、妻子とともに奥州平泉に向かいますが、最期は戦うことなく、持仏堂にこもり、愛刀で妻とまだ幼い娘を殺し、義経も自害します。

源義経の辞世の句として残されている和歌が、「後の世もまた後の世もめぐりあへ染む紫の雲の上まで」です。

この辞世の句を現代語訳すると、「後世も、またその後世もめぐり逢おう、あの紫に染まった雲の上の浄土まで(一緒に行こう)」という意味になります。

これは、義経の忠臣である武蔵坊弁慶べんけいの「六道の道のちまたに待てよ君おくれ先立つ習いありとも」という辞世の句への返歌として、源義経が詠んだとされる歌です。

この弁慶の辞世の句は、現代語訳すると、「冥土の道の途中で待っていてください、たとえ死の順番に前後はあったとしても」という意味になります。

六道というのは、仏教のなかで、衆生が輪廻すると教えられている六つの世界のことを指します。

弁慶と言えば、「弁慶の立ち往生」という言葉も有名な伝説として残っています。

武蔵坊弁慶が衣川の合戦で、源義経を守るために、大なぎなたを杖にして、橋の中央に立ったまま矢面に立って死んだという伝説。また、進退きわまり、どうすることもできないことのたとえ。

出典 : 弁慶の立ち往生|コトバンク

源義経と弁慶の固い絆が伝わってくる和歌と言えるでしょう。

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