明智光秀〜ときは今あめが下知る五月哉〜意味と解釈
連歌
〈原文〉
ときは今天が下知る五月哉
〈現代語訳〉
時は今、天下を治める五月になったことよ。
概要
天正10年(1582年)5月、本能寺の変の9日前に、京都の愛宕山西之坊威徳院にて催された連歌会『愛宕百韻』で、明智光秀によって詠まれた連歌の発句。
ときは今天が下知る五月哉
これは、織田信長や明智光秀の生涯を描いた小説、またドラマなどにも登場する有名な句です。
この「あめが下知る」、表記によっては「天が下知る」という漢字が使われている場合もあるかもしれませんが、読み方は「あめがしたしる」です。「天が下」というのが「天下」を、「知る」が「治める、支配する」を意味し、句全体の現代語訳としては、「時は今、天下を治める五月となったことよ」となります。
明智光秀が、織田信長から毛利征伐の先鋒を命じられていたことから、この句を聞いた周りの者たちも、「信長様が、毛利氏を倒し、天下を治める五月」という戦勝祈願の連歌という風に解釈したと考えられます。
しかし、その後、明智光秀は、中国地方には向かわず、本能寺に行き、織田信長を討つことになります。
そのため、この連歌は、実は戦勝祈願の裏の意味合いとして、織田信長が毛利に勝利する、という句ではなく、明智光秀自身が信長に勝利する、ということを祈願したのではないか、という指摘もあります。
この「時」というのも、明智光秀の本姓である「土岐」と掛けられ、「時は今、土岐氏である私が天下を治める五月であることよ」という句だったのではないか、と言われています。
豊臣秀吉の天下後、『愛宕百韻』の記録を見ると、実際に収められていた句は、「ときは今あめが下なる五月かな」とあり、この場合は、「時は今、五月雨の季節で、雨の下である五月であるよ」という意味になり、これは、光秀か、誰かによって改変されたのではないか、という説もあるようです。
ちなみに、この『愛宕百韻』の最後の百句目、「国々はなほのどかなる頃」は、明智光慶、すなわち明智光秀の長男の作です。