和歌の解説

吉田松陰の辞世の句

吉田松陰の辞世の句

和歌

〈原文〉

身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめ置かまし大和魂やまとだましひ

〈現代語訳〉

私の身がたとえ武蔵の地で朽ちてしまったとしても、大和魂だけはこの世に留めおきたいものだ。

概要

吉田松陰の肖像

吉田松陰よしだしょういんは、文政13年(1830年)に生まれ、安政6年(1859年)に29歳という若さで死没(死因は、斬首による処刑)する、幕末の武士、思想家、教育者です。

ペリー来航を機に国防意識の高まった吉田松陰は、再航したペリーの黒船に密航を企てるも、失敗して自首し、荻の野山獄に入ったのち、実家の杉家に幽囚。

この地で吉田松陰は松下村塾を開塾し、高杉晋作や伊藤博文など多くの志士たちを育てます。

その後、吉田松陰は倒幕を主張し、再び投獄されると、安政6年(1859年)、安政の大獄で江戸に送られたのち、処刑されます。

処刑日は10月27日であり、執行の直前の10月25日未明から26日にかけ、吉田松陰は、門人や同志に当てた遺書『留魂録りゅうこんろく』を書きます。

この『留魂録』の冒頭に記した辞世の句が、「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめ置かまし大和魂」です。

松蔭の辞世の句を現代語訳すれば、「処刑され自分の身がこの武蔵の地で朽ち果ててしまおうとも、大和魂だけはこの世に留め置きたい」という意味になります。

吉田松陰 辞世の句画像 : 吉田松陰の遺書の写し

また、辞世の句としては、他に『留魂録』の末に「かきつけ終わりて後」という形で以下の5首の和歌も吉田松陰は残しています。

心なることの種々くさぐさかき置ぬ思ひ残せることなかりけり(わが心にある事々は書いておいた、思い残すことはないだろう。)

呼びだしのこえまつ外に今の世に待つべき事のなかりけるかな(処刑の呼び出しの声を待つほかに、この世に待つことは何もない。)

討れたる吾をあわれと見ん人は君を崇めてえびす払へよ(処刑された私を哀れと思う人は、天皇陛下を崇め西洋列強を打ち払っておくれ。)

愚かなる吾をも友とめづ人はわがともどもとめでよ人々(愚かな私を友として愛してくれる人は、私の友人たちも愛してほしい。)

七たびも生きかえりつつえびすをぞはらはんこころ吾忘れめや(七回生まれ変わっても、攘夷の心を私は忘れない。)

加えて、この遺書の第8節の文章にも、吉田松陰の死生観が深く綴られています(『留魂録』第8節の現代語訳全文)。

今日、私が死を目前にして、平穏な心境でいるのは、春夏秋冬の四季の循環という事を考えたからである(現代語訳)。

出典 : 吉田松陰『留魂録』

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