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豊臣秀吉の辞世の句の意味
和歌
〈原文〉
露と落ち露と消えにし我が身かな浪速のことは夢のまた夢
〈現代語訳〉
露のように生まれ、露のように消える、私の儚い人生だった。大阪で築いた栄華の日々も、まるで夢の中のようだ。
概要
豊臣秀吉
豊臣秀吉は、戦国時代、安土桃山時代の大名で、織田信長の跡を継いで天下を統一します。
秀吉の生誕は、1537年(天文6年)で、貧しい農民の家に生まれます。この生まれに関しては、足軽の子という説もあります。
生まれた場所も、尾張国愛知郡の中村とされているものの、厳密に分かっておらず、また、幼少期のことも詳しく分かっていません。8歳の頃に、光明寺に預けられ、奉公するも、追い出され、15歳の頃には針を売りながら東海道を東に向かったそうです。
その後、小者として織田信長に仕えます。身分は低かったものの、有名な冷えた草履を懐に入れて温めておいたという逸話も残るなど、機転を効かせた対応を行なっていたこともあってか、次第に重用されるようになります。
さらに、活躍を続け、重要な地位に上り詰めた秀吉。本能寺の変で信長の死後、明智光秀,柴田勝家を倒し、四国、九州征伐、さらに1590年に、小田原北条氏を滅ぼし、天下統一を果たします。
秀吉は、その政治的手腕において、近世封建社会の基礎を確立したことでも知られています。
晩年、病状が悪化した豊臣秀吉は、死期を悟り、前田利家と徳川家康に、家康にあとは頼んだということと、息子の秀頼のことが気掛かりだという心配の言葉を残したと言います。また、いよいよというときに書いた自筆の遺言状にも、「返す返す、秀頼の事、頼み申し候」と綴っています。
まだ幼い息子の将来が、心配でならなかったのでしょう。
秀吉の死因に関しては諸説あるものの、死の数年前から咳をしきりにしていたということで、労咳(結核)によって死亡したという説が、もっとも無難であると考えられています。
没年は、1598年(慶長3年)で、62歳のときに亡くなります。
その豊臣秀吉の辞世の句として知られる和歌に、「露と落ち露と消えにし我が身かな浪速のことは夢のまた夢」があります。
現代語訳すると、「露のように生まれ、露のように消える、儚い人生だった。大阪で築いた栄華の日々も、まるで夢の中のようだ。」という意味になります。
浪速というのは、大阪を意味する古語で、今でも使われています。
立身出世を果たし、天下人となった秀吉でさえ、死の間際になって振り返ってみたときに、自身の人生は、露のように、また夢のように儚いものだった、と感じ入るものなのでしょう。