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今川義元の和歌
和歌
きてみれば嵐のおとの高尾川水にも色のちる紅葉かな
入日さす遠山桜ひとむらはくるるともなき花の蔭かな
夏山の茂みふきわけもる月は風のひまこそ曇りなりけれ
心をば紅葉に染めて榊葉の常盤の色を契りともかな
影うかふ月の盃満ちなからいく世の秋かめくり逢らむ
かけあさき野志満か崎の雪の日に屋とりやいつくかへる舟人
秋の月山辺さやかに照らせるは落つる紅葉のかすを見よとか
また明日の光よいかに過ぎて来しあとは今宵の月の影かな
幾千歳ふる枝の松の常盤なるみとりを君かためしにやみむ
昨日なし明日またしらぬ人はただ今日のうちこそ命なりけれ
今川義元とは
今川義元は、戦国時代の駿河国および近江国の大名。姉妹との婚姻関係によって武田信玄や北条氏康とは兄弟に当たる。「海道一の弓取り」という異名も持っている。
永正16年(1519年)に生まれ、永禄3年(1560年)に死没。
駿河守護の今川氏親の三男として駿河城で生まれ、若くして出家し、善徳寺に入門。しかし、長兄の氏輝が夭逝したため、義元が家督を継ぐことになる。
公家文化に精通し、京都の公家や僧侶とも交流が深く、文化人だったとされる。
父の氏親が、公卿の三条西実隆に和歌の指導を受けていたように、今川義元も、冷泉為和に指導を受け、和歌の定例会も毎月行なっている。
この定例会は戦闘中も実施され、また七夕や十五夜などの行事のたびに歌会が催されたと言う。
文化に注力した今川義元だったが、歌の実力自体はそれほどでもなく、為和から厳しく指導された記録も残っているようだ。