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武田信玄の和歌
和歌
霞むより心もゆらぐ春の日に野べの雲雀も雲に鳴くなり
軍兵は物言はずして大将の下知聞く時ぞいくさには勝つ
誰も見よ満つればやがて欠く月のいざよふ空や人の世の中
たちならぶ甲斐こそなけれ桜花松に千歳の色はならはで
清見潟そらにも関のあるならば月をとどめて三保の松原
葦垣のとざしもよしやそのままに清見が関は三保の松原
ただ頼めたのむ八幡の神風に浜松が枝はたふれざらめや
難波江の葦の葉わけの風あれてよしみつ潮の音の寒けさ
君を祈る賀茂の社のゆふたすきかけて幾代か我も仕へん
上駻の中の駻こそ大将の乗るべき馬と知れや武士
人は城 人は石垣 人は堀 情けは味方 仇は敵なり
武田信玄とは
武田信玄
武田信玄(武田晴信)は、大永元年(1521年)に生まれ、元亀4年(1573年)に死没した、甲斐国を治めた戦国時代の武将、大名です。
この「信玄」とは、出家後の法名で、正式には徳栄軒信玄といいます。
武田信玄は、戦国最強と言われる騎馬隊や、上杉謙信と戦った川中島の戦いが有名ですが、優れた政治家としても力を発揮し、特に、釜無川に信玄堤を築いて氾濫を抑えた治水事業などは、後世に大きな影響を残しています。
和歌に関しては、平安時代中期の歌人で公卿の藤原公任が漢詩・漢文・和歌を集めた『和漢朗詠集』について学び、また『源氏物語』も通読していたと考えられています(参照 : 武田信玄の和歌をめぐって)。
武田信玄にとっては、『源氏物語』『伊勢物語』『古今和歌集』が、重要な古典として位置付けられていたのではないか、と指摘されています。
教養が深く、文武両道を重んじていた武田信玄。中央政権と交渉もあり、教養として和歌をたしなんだ信玄は、文学青年の一面があったと言われています。
21歳のころの信玄は今でいう“文学オタク”だった。仮病を使って引きこもり、僧を招いて30日もの間、和歌に没頭したほどだ。意外や、文学青年なのである。
ちなみに、武田信玄の弟の信繁も、「歌道にたしなみを持つべきだ」と述べています。
より多くの信玄の和歌について知りたい場合は、武田信玄の専門サイト「武田信玄の館」に掲載されています。
以上、甲斐国の戦国武将、武田信玄の和歌でした。