戦国時代

織田信長の和歌

織田信長の和歌

和歌

今川の流れの末もたえはてて千本の桜散りすぎにけり

銭ぐつわはめられけるか右馬助うまのすけ人畜生とこれをいふらめ

勝頼と名乗る武田の甲斐もなくいくさに負けて信濃なければ

思ひねの床の山風さえさえて涙もこほる片しきの袖

うらみつる風をしつめてはせを葉の露を心の玉みかくらん

さえのぼる月にかかれる浮雲の末ふきはらへ四方の秋風

織田信長とは

絵、織田信長の肖像画

織田信長は、戦国時代から安土桃山時代にかけての戦国大名。天文3年(1534年)に生まれ、天正10年(1582年)に死没。

尾張の一地方領主である織田信秀の子として生まれた信長(幼名は吉法師きっぽうし)は、家督を継いだのち、徐々に勢力を拡大し、尾張一国の支配を固めていく。

今川義元を桶狭間の戦いで下し、美濃の斎藤氏や比叡山を撃破、その後室町幕府も滅ぼし、天下統一の土台を築いていく。

長篠の戦いでは武田家に勝利し、滅亡させるなど、東国の多くを支配下に治める。

しかし、1582年、毛利氏討伐のために中国地方に進む準備をしていた際、重臣の明智光秀の謀反によって本能寺で自害に追い込まれる(本能寺の変)。

織田信長の性格は、非常に残虐で、家臣に対しても薄情だったと一般的には考えられている。

武芸の鍛錬の他に、文化面では、鷹狩り、茶の湯、相撲を好んだ。

和歌については信長はほとんど興味を示さなかったのか、生涯で数首しか残っていないとされる。

突然の死であり、直接的な辞世の句はないが、信長の死生観を伝えたものとしてよく知られるのが、信長が好んだと伝えられる幸若舞『敦盛』の一節。

人間じんかん五十年
下天げてんのうちを比ぶれば
夢幻ゆめまぼろしのごとくなり
一度ひとたび生を得て
滅せぬもののあるべきか

現代語訳すれば、人の世の五十年という歳月は天界にとっての一日に過ぎない、夢幻のように儚いものだ。

一度生を受けたら、滅びぬ者など存在しない、という意味になる。

この舞を、桶狭間の戦いの前夜に謳い舞ったと伝えられている。

此時、信長敦盛の舞を遊ばし候。人間五十年 下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか、と候て、螺ふけ、具足よこせと仰せられ、御物具召され、たちながら御食をまいり、御甲めし候ひて御出陣なさる。

出典 : 太田牛一『信長公記』

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