武田信玄〜人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり〜意味と解釈
和歌
〈原文〉
人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり
〈現代語訳〉
人は城であり、人は石垣であり、人は堀である。情けをかけることは味方となり、害を与えれば敵方となる。
概要
武田信玄の肖像画
武田信玄は、甲斐国(現在の山梨県)を治めた戦国時代の大名で、甲斐武田家の19代当主です。
中央政権との交渉もあったことから、和歌の教養をたしなんでいた武田信玄ですが、彼の詠んだ和歌として知られるものに、「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり(「仇」の読み方は「あだ」)」という一首があります。
多くの武将が堅牢な城を持つなかで、武田信玄は城を築くことなく、防御力が決して高いとは言えない躑躅ヶ崎館を拠点(館を築いたのは父の信虎)としました。
武田信玄の躑躅ヶ崎館
武田信玄が城を持たなかった理由としては、山々に囲まれ、天然の要害となっている甲斐国の地形もあり、また、この和歌で詠まれているように、城や石垣や堀以上に、なによりも重要なのは「人」である、と考えたことにもあったようです。
意味は、読んで字のごとく、人は城のようなものであり、人は石垣のようなものであり、人は堀のようなものである、と人の重要性を説いた歌です。
この武田信玄の「人」を重要視した言葉は、現代のビジネス社会でも、戦国時代の名言として引用されます。
戦国の世、他の武将が堅牢な城を築いている中、武田信玄は本拠地に大きな城を持ちませんでした。一重の堀だけを巡らせた、城と呼ぶには小さい「館」に居を構えていました。
立派な城を築くよりも、強い武士を育て、戦う集団を作ることの方が大切だと考えたからでしょう。
企業も同じです。大きな社屋を構え、立派なビジネスモデルや制度があっても、社員が十分に能力を発揮しなければ経営は成り立ちません。
この「人は石垣」という言葉も注目で、石垣というのは、同じ形の大きな岩ばかりで造られているわけではなく、自然界にある様々な形や大きさの石が積み重なって頑丈な石垣となります。
人も、石垣と同じように様々な個性が重なり合うことで、より堅牢なものになる、という意味も込められているのかもしれません。
また、後半部分の「情けは味方」とは、情けをかけることで味方になってくれることもある、という意味で、「仇は敵なり」とは、逆に害を与えたり、恨みを買うことで敵が増えることを指しています。
この格言のような和歌から、人間関係も含め、「人」というのは非常に重要なものだと武田信玄が考えたことが分かります。
ちなみに、こうした教訓的な和歌のことを「道歌」や「教導歌」と呼びます。
この「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」という和歌は、ビジネスの世界で引用されるだけでなく、1961年(昭和36年)に作られた『武田節』の歌詞にも用いられるなど、一般的に広く知られています(ただし、実際に武田信玄本人が言った言葉かどうかは定かではないようです)。
