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吉田松陰の和歌
和歌
かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂
親思ふこころにまさる親ごころけふの音づれ何ときくらむ
今日よりぞ幼心を打ち捨てて人となりにし道を踏めかし
呼びだしの聲まつ外に今の世に待つべきことのなかりけるかな
心なることの種々かき置きぬ思い残せることなかりけり
討たれたる吾れをあはれと見ん人は君を崇めて夷払へよ
愚かなる吾れをも友とめづ人はわがとも友とめでよ人々
七たびも生きかへりつつ夷をぞ攘はんこころ吾れ忘れめや
身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂(辞世の句)
吉田松陰とは
絵、吉田松陰の肖像画
吉田松陰は、文政13年(1830年)に生まれ、安政6年(1859年)に死没する幕末の武士、思想家、教育者。
安政元年(1854年)、海外の事情を知るために、再来したペリーの黒船に密航するも失敗し、自首。
投獄ののち、実家のある杉家に幽囚され、その地で松下村塾を開くと、久坂玄瑞や高杉晋作、伊藤博文らを育てる。
松下村塾の教育内容は、吉田松陰が弟子たちに教えるというより、弟子と一緒に議論したり、文学の他、畑仕事や登山、水泳なども行う「生きた学問」であり、校則など決まったルールもなく、自主性を重んじたものだったと言う。
その後、幕府が無勅許で日米通商条約を締結したことに松陰は激怒、運動を展開しようと試みるが、野山獄に再入獄。
翌年、安政の大獄で江戸に送られ、安政6年(1859年)、死罪が執行される。享年30歳。
吉田松陰は、処刑日が訪れる前に、未明頃に門人や同志に当てた遺書『留魂録』を書く。
辞世の句として、遺書の冒頭に一首「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬとも留め置かまし大和魂」を記す。
また、遺書の最後に記したものとして、五首の和歌がある。
心なることの種々かき置ぬ思ひ残せることなかりけり
呼びだしの声まつ外に今の世に待つべき事のなかりけるかな
討れたる吾をあわれと見ん人は君を崇めて夷払へよ
愚かなる吾をも友とめづ人はわがとも友とめでよ人々
七たびも生きかえりつつ夷をぞ攘はんこころ吾忘れめや
30年という生涯のなかで、吉田松陰は全部で108首の和歌を詠んでいる。