名言、逸話

織田信長の名言

織田信長の名言

織田信長とは

戦国武将として最も有名な大名の一人に織田信長がいます。

織田信長画像 : 紙本著色織田信長像 部分(狩野元秀画、長興寺蔵)

織田信長は、1534年(天文3年)に、尾張国の戦国大名である織田信秀と土田政久の娘のあいだに嫡男として勝幡城しょばたじょうで生まれ、幼名を吉法師きっぽうしと言います。

1546年(天文15年)、元服し、織田三郎信長と名乗り、父の信秀の死によって18歳で家督を継ぐと、自ら上総介かずさのすけと称します。

若い頃の織田信長は、奇天烈で粗暴な行動も多かったことから、周囲からも「大うつけ(大バカ者)」と言われるほどでした。

その後、尾張国の反対勢力を一掃しようと行動を起こし、尾張の統一を果たすと、1560年(永禄3年)、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取り、織田信長は一躍武名を轟かせます。

さらに天下統一を目指し、勢力を拡大していった織田信長でしたが、1582年(天正12年)、家臣の明智光秀の襲撃(本能寺の変)を受け、圧倒的多数の明智軍には敵わず、自ら火を放ち、自害します。織田信長が49歳のときでした。

実際に織田信長と会っている宣教師のルイス・フロイスは、織田信長の見た目の特徴や性格について、次のように記しています。

彼は中くらいの背丈で、華奢な体躯であり、ヒゲは少なく、はなはだ声は快調で、極度に戦を好み、軍事的修練にいそしみ、名誉心に富み、正義において厳格であった。彼は自らに加えられた侮辱に対しては懲罰せずにはおかなかった。いくつかの事では人情味と慈愛を示した。彼の睡眠時間は短く早朝に起床した。貪欲でなく、はなはだ決断を秘め、戦術に極めて老練で、非常に性急であり、激昂はするが、平素はそうでもなかった。彼はわずかしか、またはほとんど全く家臣の忠言に従わず、一同からきわめて畏敬されていた。

酒を飲まず、食を節し、人の扱いにはきわめて率直で、自らの見解に尊大であった。彼は日本のすべての王侯を軽蔑し、下僚に対するように肩の上から彼らに話をした。そして人々は彼に絶対君主に対するように服従した。彼は戦運が己に背いても心気広闊、忍耐強かった。彼は善き理性と明晰な判断力を有し、神および仏の一切の礼拝、尊崇、並びにあらゆる異教的占卜や迷信的慣習の軽蔑者であった。

形だけは当初法華宗に属しているような態度を示したが、顕位に就いて後は尊大に全ての偶像を見下げ、若干の点、禅宗の見解に従い、霊魂の不滅、来世の賞罰などはないと見なした。彼は自邸においてきわめて清潔であり、自己のあらゆることをすこぶる丹念に仕上げ、対談の際、遷延することや、だらだらした前置きを嫌い、ごく卑賎の家来とも親しく話をした。

彼が格別愛好したのは著名な茶の湯の器、良馬、刀剣、鷹狩りであり、目前で身分の高い者も低い者も裸体でルタール(相撲)をとらせることをはなはだ好んだ。なんぴとも武器を携えて彼の前に罷り出ることを許さなかった。彼は少しく憂鬱な面影を有し、困難な企てに着手するに当たっては甚だ大胆不敵で、万事において人々は彼の言葉に服従した。

出典 : ルイス・フロイス 『フロイス日本史』

このフロイスの証言は、相当微細に記録されており、恐らく織田信長の特徴を正確に残したものなのでしょう。

褒めているわけでもなく、貶しているわけでもなく、なるべく客観的に描写している様子が窺えます。

戦国武将と言うと、様々な伝説や、残したとされる名言などもよく知られていますが、以下、意訳含め、織田信長の名言として有名な言葉を紹介したいと思います。

名言

・人間五十年 化天(下天)のうちを比ぶれば 夢幻の如くなり 一度生を受け 滅せぬもののあるべきか

・是非に及ばず。

・鳴かぬなら 殺してしまえ ホトトギス

・才のある者は、鍛錬を怠る、自惚れる。しかし、才がない者は、日々努力する。

・攻撃を一点に集約せよ、無駄な事はするな。

・臆病者の目には、敵は常に大軍に見える

・人は心と気を働かすことをもって良しとするものだ。用を言いつけられなかったからといって、そのまま退出するようでは役に立たない。その点、お前は塵に気付いて拾った。なかなか感心である。

・人を用ふる者は、能否を採択すべし、何ぞ新故を論ぜん。(人を雇用する際は、能力の有無を基準に選ぶこと。 勤務年数の長さを判断基準にすべきではない。)

・戦に勝るかどうかと兵力は必ずしも比例しない。比例するかそうでないかは戦術、つまり自身にかかっているのだ。

・およそ勝負は時の運によるもので、計画して勝てるものではない。功名は武士の本意とはいっても、そのあり方によるものだ。

たのむところにある者は、恃むもののために滅びる。

・器用というのは他人の思惑の逆をする者だ。

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