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上杉謙信の名言
名言1、われは兵をもって雌雄を戦いで決せん。
〈言葉〉
われは兵をもって雌雄を戦いで決せん。塩をもって敵を苦しめることはせぬ。(『武将感状記』より)
〈意味〉
私は兵によって優劣を戦いで決する。塩でもって敵を苦しめるような卑怯なことはしない。
解説
敵が苦しんでいるときに、その苦境を救うという意味の諺「敵に塩を送る」。
この諺の由来となっている戦国武将の上杉謙信の逸話がある。
上杉謙信は、若い頃から卓越した軍事的才能を発揮し、「越後の虎」と恐れられた。
一方で、観音菩薩の信者だった母虎御前や、林泉寺(新潟県上越市)の名僧天室光育禅師の影響を受け、武神である毘沙門天に帰依。その戦いには慈悲の心があり、弱みにつけこむようなことはしなかった。
永禄10年(1567年)、甲斐国の武田信玄は、嫡子の義信を確執ゆえに自害させ、今川氏の出身だった夫人を駿河に送り返す。
翌年、信玄は、甲斐、相模、駿河のあいだで結ばれていた同盟を破り、駿河に侵攻する。
この侵攻に対し、駿河の今川氏真は、相模の北条氏康と図り、信玄の領国への「塩」の輸送を全面的に禁止。
武田信玄が治めていた甲斐と信濃は山国のため、塩が取れなかった。
塩は、食料の保存に使われる貴重なもので、塩がなければ食材も腐ってしまう、まさに命だった。
氏真と氏康、そして謙信が協力し、日本海側の塩も止めれば、甲斐と信濃の人々にとっては死活問題となる。
しかし、敵対関係にあった謙信は、戦というのは正々堂々と行うもので、こういう姑息な手段は使うものではないと、信玄の領国に塩を送るよう、家臣の蔵田五郎左衛門に命じる。
糸魚川からの千国街道を通り、永禄12年(1569年)の1月11日、松本に塩が届くと、信濃や甲斐の人々は謙信の心遣いに感謝し、毎年その日に塩市が開催されるようになる。
ちなみに、この塩市は、塩が国の専売事業となった明治まで続き、今は「松本あめ市」というイベントとして残っている。
武田信玄も、謙信の振る舞いに感謝し、一振りの太刀を贈る。
これは「塩止めの太刀」と呼ばれ、東京国立博物館に現存している。
また、信玄の息子の武田勝頼が長篠の戦いで信長らに敗れたとき、家臣の一人が、今信濃に攻め込めば、と謙信に進言するも、謙信は、「人の落ち目を見て攻めいるのは本意ではない」と最後まで出兵することはなかった。
名言2、われを毘沙門天と思え。
〈言葉〉
われを毘沙門天と思え。(『名称言行録』より)
〈意味〉
私のことは毘沙門天(仏教の宇宙観に出てくる四方のうちの北を守る守護神)と思え。
解説
仏教の宇宙観では、世界の中心に須弥山という山があり、その宮殿には帝釈天がいる。
そして、四方を守る四天王のうち、北を守護する武神が毘沙門天で、上杉謙信は、自身のことを、この毘沙門天の化身と考えた。
謙信は須弥山を京都に見立て、帝釈天を天皇と将軍と信じ、北の越後にいる自分を毘沙門天となぞらえ、天皇と将軍を守る存在とした。
仏教信仰が深く、毘沙門天に祈りを込め、その願いが成就するために、謙信は鳥魚の肉を断ち、女性と交わることを禁じ、侍女さえも近づけようとはしなかった。
毘沙門天に心を寄せて以降、謙信は戦場でさえも兜を用いることはなく、黒漆で塗られた笠を被っていたとされる。
戦の前には、毘沙門堂にひとり籠り続け、座禅瞑想し、「毘」という文字を旗印に掲げて出撃した。
名言3、武士は我が足と思い〜
〈言葉〉
武士は馬を我が足と思い、弓鎗を左右の手と定め、敵を撃つ刃は己の心と考え、常に武道をたしなむ事が本意の核心である。(『北越軍談付録』より)
〈意味〉
武士は馬を自分の足のように思い、弓槍を左右の手と定め、敵を撃つ刃は自分自身の心と一体と考え、常に武道をたしなむことがもっとも重要なことである。
解説
上杉謙信は、まだ十代半ばの頃に戦を指揮し、初陣で勝利。天才的な戦略と勇敢さによって若いながら武将として頭角を現す。
毘沙門天の化身であり、また武神とも崇められるなど、戦国最強の武将として名高く、前述のような武士に関する名言も多く残っている。
武士の子育てに関しても、十四、五の頃までは、わがままでもいいので勇気を育てることが大事であり、そのためにも父が勇気を持っていること、その道を説き諭すことが重要だ、と語っている。
名言4、心に物なきときは〜
〈言葉〉
心に物なきときは、心広く体安らかなり。(『上杉謙信公家訓』より)
〈意味〉
心に物欲がないときは、心は伸び伸びとし、体も安らかである。
解説
山形県米沢市の米沢城内にある上杉神社には、上杉謙信の家訓碑がある。
家訓は全部で十六ケ条あり、「心に物なきときは、心広く体安らかなり」とは、第一条となる。
現代語訳で言えば、心に物欲がなければ、心は広く、体も安らかである、という意味になる。
上杉謙信は、観音を深く信仰する母の虎御前や、七歳の頃に父の死に遭遇し、林泉寺の天室光育に預けられた影響から、仏教的な思想が色濃く反映されている。
義理と、潔癖な倫理観の精神が、この家訓にも見える。
名言5、四十九年一睡夢〜
〈言葉〉
四十九年一睡夢 一期栄華一盃酒(『上杉米沢家譜』より)
〈意味〉
四十九年の私の生涯はひと眠りの夢に過ぎない。この世の栄華も一盃の酒と同じである。
解説
上杉謙信は、天正6年3月13日(1578年4月19日)、49歳で病死する。
謙信は、前年12月に春日山城に帰還し、1578年3月15日から開始する遠征の準備をしている只中の3月9日、急に倒れる。
養子の景勝らが看病し、鍼灸や祈りなど様々な治療を施すも、4日後の13日に他界。
死因は脳溢血とされ、大酒飲みだったことが要因の一つになったと考えられている。
この「四十九年一睡夢 一期栄華一盃酒」は、酒飲みだった謙信らしい言葉で、「四十九年の私の生涯はひと眠りの夢に過ぎない。この世の栄華も一盃の酒と同じである」という意味の辞世の句。
上杉謙信の辞世の句としては、他に和歌の「極楽も地獄も先は有明の月の心にかかる雲なし(極楽に行くか地獄に行くかわからないが、自分の心は雲のない月のように晴れ渡っている)」もある。
名言6、人の落ち目を見て攻め取るは〜
〈言葉〉
人の落ち目を見て攻め取るは、本意ならぬことなり。
〈意味〉
人の落ち目をついて攻め取ることは、自分の本意ではない。
解説
敵に塩を送る、という慣用句の由来となった上杉謙信と武田信玄のあいだの逸話は有名だが、その信玄の息子勝頼が長篠の戦いで敗れた際、謙信の家臣が、今なら信濃に攻め込めると進言した。
しかし、上杉謙信は、「今攻めれば甲斐までも奪えるだろうが、人の落ち目を見て攻め取るのは自分の本意ではない」と語り、武田家の領国に攻め入ることはなかった。
名言7、生を必するものは死し、死を必するものは生く
〈言葉〉
生を必するものは死し、死を必するものは生く
〈意味〉
生きたいと願って戦場に向かうと死ぬが、死を覚悟して向かった者は生きる
解説
軍神と呼ばれた上杉謙信が、戦を前に大切にしていた心得だとされる。
生きたいと思いながら戦場に向かえば、覚悟ができず、隙も生まれるかもしれない。しかし、始めから死を覚悟して望めば、むしろ返って生きられる。
現代社会では、さすがにこうした状況というのはなかなかないが、それでも、うまくやろうと思うと保身が芽生え、失敗する。
逆に、失敗してもいい、全部を出し切ろう、と覚悟を持って無私で臨むと成功する、ということもあるだろう。
実際に、死を覚悟し、戦に臨んだからこそ、謙信は抜群の強さを発揮したのかもしれない。
名言8、運は天にあり。鎧は胸にあり。手柄は足にあり。
〈言葉〉
運は天にあり。鎧は胸にあり。手柄は足にあり。何時も敵を掌にして合戦すべし。
〈意味〉
運は天が決める。しかし、身を守ることは、鎧を着るように自らの心や準備で決まる。手柄は、自ら汗をかき、掴むことができる。勝負は運任せにせず、敵の情報を収集し、敵を手のひらで転がすように戦うことが大事だ。
解説
この言葉も、先ほどの「生を必するものは死し、死を必するものは生く」と同じく、上杉謙信が、まだ長尾景虎だった二十代後半に戦場で述べたとされる武士の心得だ。
運は天にあり、というだけでは、全てが運次第で、自分の力ではどうしようもできない、という意味合いになってしまうが、実際は続きとして、自らのできることをする、という文言が続く。
運というのは確かにあり、天が決めるものだ。
しかし、だからと言って何もしないのではなく、「できること」は「できること」として力を注ぐ。
その重要性を、上杉謙信は説いているのだろう。